P1070047“何がおこるかわからない”

これが芸術の最大の楽しみなのではないでしょうか。

だから「どうなってもいい」のです。

 

もちろん、努力をせずに曲を弾いていいというわけでも、好き勝手に弾いていいというわけでもありません。 自分にできること、すべてをやりつくした上で「すべてを手放す」ことで自分の想像以上の結果を得られることができるのです。

 

舞台が怖いのは、仕方のないことなのではないでしょうか。なぜなら、想像もつかない自分を発見するかもしれないのですから。 ところが、私たちはどうしてもどうにかして「安心」を手に入れようとしてしまいます。

 

だから、曲がうまく破綻なく弾けるように練習します。そして練習すればするほど心配になって「さらに完璧に」弾けるように長時間練習を重ねます。

 

有機的な練習であれば、いくら時間をかけても問題はないと思います。

 

ただ、たいていの場合はからだが疲労して思うようにからだが動かなくなってしまいます。心もやっぱり疲労して、「新しい何か」を追及する元気がなくなってしまうのです。 「なんとか無事に弾きとおせますように」誰もがいちどは思った事があるのではないでしょうか。 私自身もつい練習をしすぎて本番時には疲労困憊な状態になってしまうことも何度かありました。

 

では有機的な練習とは?

 

曲を「このような曲だ」とか「この速さで弾かなければならない」とか「このように解釈すべきだ」という固定的な考えをいちど捨て去ってみてください。 自分の小さな世界の中だけで曲を判断して弾いても新しい発見はありません。

 

先生の下で習うことは必要だし重要です。でも、先生の「言いなり」になってはいけません。

 

すべては自分の出す「音」を聴いて、どのように反応するのかを選ぶ練習をするべきなのです。共演者が居るときは、その場で発生した音にどのように反応するかが大切です。 どのように弾きたいのかがはっきりしている場合は、どうしたらそのように「反応したくなる音をだすか」考えるべきです。 普通に人と会話をするときだって「面白い会話」は相手の反応と自分の反応が呼応したときに「楽しい」と感じるでしょう? 台詞のあるお芝居も「棒読み」だったり、いかにも「台詞をしゃべっている」ようで、相手とまったく意志の疎通がないような話し方では「面白かった」とは言い難いお芝居ですよね。

 

ピアニストはどうしても他の楽器よりも「独りよがり」になってしまいがちです。自己完結しすぎてしまう傾向にあるように思います。 自分が相手と会話するように、楽器と対話し、今そこにある音と対話をする練習を心がけるべきです。

 

テクニックがあるから曲が弾けるようになるのではなく、自分が曲に反応するからテクニックがついていくのです。 なので、どんなときも指が動くことだけを目的に練習をするべきではないし、たとえ指が動くようになったとしてもそこに指を動かす「根拠」がなければ感動的な音楽は生まれません。

 

当たり前なことなのになぜ、私たちは舞台を怖れ、物理的な破綻を怖れるのでしょうか。

 

私たちは、いつも理想的な環境で演奏できるわけではなく、天候によっても楽器の状態は変わるし、聴衆が入っているときといないときでは音の響き方もまったく違います。

 

演奏をするときは、その場所とピアノ、環境と自分がうまく対話できるように早目に会場に入って慣れておく必要があります。控え室から舞台までの距離とか、ライトをつけたとき客席がどのように見えるかとか・・・その空間が自分とできるだけ近しい存在になるようにしておくべきです。

 

しかし、リハーサルがたくさんできる時は、どうしても時間いっぱいいっぱい弾いて「安心」しようとしてしまいます。そんなときはどうか本番のその時まで体力をとっておいてください。 自分の思っている以上に本番の日は神経が細かくなっていて、いつも以上に体力を消耗していることが多いのです。

 

きちんと食事をとり、疲れすぎないように気をつけましょう。 やることはやった。だから「もうどうなってもいい」のです。 自分を許すことで、予想以上の結果を得られることがあるのです。

 

恐れずに緊張し、こわいけど堂々と舞台に出てください。