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ピアノとの出会い

平穏無事な人生である。ずっとそう思っていました。 

自分の詳しいプロフィールを書いてみようかと思って(演奏暦とか入賞暦以外の)書き出してみると、
意外にいろいろなことをやっています。
 

過ぎ去ってみれば、楽しいこともいっぱいありましたが、私の許容範囲を超える出来事もたくさんあって、
やっぱりその時は必死だったり何日も眠れなかったり病気になったりしているのです。
 

でも不思議にその時は「今がいちばんいい」と思い込んでいたというか・・ 
けっこう細かいことを気にしたり、不安をいつもかかえている性格ですが意外に根幹はお気楽モノでタフなんです。
 

このように育ててくれた両親と環境に感謝しなければ。 

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音楽のはじまり

気づいたらピアノを弾いていました。 

いつから弾いていたか記憶にないのです。 ただ、家にはピアノは無く足ふみオルガンとヴァイオリンがあって趣味で母が時々弾いていました。 うっすら記憶があるのは幼稚園にいっているときに先生がピアノを練習していて、見てたら弾けるような
気がしたので、家に帰って覚えてきた曲を両手でオルガンで弾いていました。 

それがバイエルだと母が気づき「ちゃんと習ったほうがいいかも」と思い、ヤマハのグループレッスン(幼稚園内でやっていました)で初めて教本を習うことになったのです。 ただ、このときのレッスン内容はほとんど覚えていなくて・・・バイエルは弾けるけど、ピアノの先生が教えてくれた基本中の基本「真ん中のド」の位置が全然わかんない。そんなのは覚えています。 

だいたいが協調性のない子供で、みんなが運動会をやっている最中でもひとりでお気に入りの滑り台の下で遊んでいたり、友達も少なくて仲良しさんがお休みだと遊ぶ人がいないのでひとりでいることが多かったです。 

片手になぜか鯉のぼり、もう一方の手に画家だった叔父の画集を毎日かかえて歩いているへんな子供。画集はひまがあれば飽きもせずながめていたので表紙はボロボロです。 動物が好きで、ある日ウサギがとても可愛かったので本気でウサギになりたいと思ってウサギの食べていた草を食べてみたりしました。鳥みたいに空を飛んでみたいと思って崖から飛び降りたりしました。 

今から考えるとかなり危ない考えの子供です(笑) 

夜中も急にはげしく泣いたりするので、祖母が心配して「かんのむし封じ」のお守りをくれました。母がお守りにブタの編みぐるみを着せていつも私に持たせていました。 (驚くことに今でもこのお守りはなくならずにだいたい私のかばんの中に入っているのです)

まともな人間のおとなになれて本当によかった! 

ピアノだけはすごくはまりました。 ほおっておくと3時間でも4時間でもピアノの前に座っている。 個人レッスンの先生につきはじめてからは音符が読めるようになったので知らない曲をどんどん弾くのが楽しかった。 習い始めて半年でベートーヴェンのトルコマーチを発表会で弾きました。嬉しかった。1年で簡単なソナタが弾けるようになりました。 

ベートーヴェンが好きなのはこのへんの記憶が鮮やかに残っているからかもしれません。 

こんなのが私の「音のある生活」のはじまりなんです。 
そして最初から将来の夢はピアニストだったのです。 

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円の中心でひとり

私はヒトミシリです。それは今でもそうですが・・ 

そのくせ、道に円が書いてあるとどうしてもその中心に立ってみたくなる。木の切株があればそれに乗ってみないと気がすまない。デパートの屋上などにイベント用の舞台があれば「歌わなきゃ!」となぜか思い込んでいました。 昔はデパートによくピアノ売り場(今はあまり見かけないですね)があって、ピアノがあったので「弾かなきゃ!」と思って勝手に自主リサイタルをやって人だかりをつくっていたりしました。(なんて迷惑な…)

人と会話するとか、みんなで仲良く遊ぶのはとても苦手なんですけど、何かを披露することにまったく躊躇しない性格だったんです。 

キリスト教の幼稚園に行っていたのでクリスマスに「キリスト降誕劇」をやります。そのころの記憶はあまりないのですが、主役の聖母マリアの役を「私がマリアさまやります!」と名言して先生を驚かしたことは鮮明に覚えています。 たしか他にその役をやる子が決まっていたはずなんだけど・・・どういうわけか、私がやることになりました。その経緯は全く覚えていないのですが主役を奪ってしまったには違いありません。 

そんなこんなで、小学生になっても過大評価される傾向にあり、無口で友達も少ないくせに何かと物事の中心に居るのがあたりまえな子供でした。 叔父の画集は相変わらずランドセルに入れて学校にも持っていっていましたが、ある日担任の先生に「それは子供の見るものじゃないから持ってきてはいけないよ」と言われてすごくショックをうけました。 叔父の絵は「世の中の汚いもの」を書くという画風をつらぬいていたので、人の裸や人の汚い部分をクローズアップして書かれたりしているのは確かです。 

でも、その線と作品に漂う品格は一流なんです。私はそこを見てほしかった。 美術の先生だけがそれを認めてくれて・・・それ以来、美術室にいりびたりです。 

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道をえらぶ

6年生の夏ごろです。 「音楽の学校に行きたい」と突然母に言ってとても驚かれました。 実は4年生のあたりからピアノの先生に「音中を受けてみない?」と薦められてはいたのですが、ぴんとこなくて「べつにいいです。」と淡々とレッスンに通っていました。 

母がピアノの先生に相談しました。先生は「えっ!?今から??」 

たいへん。中学受験は2月の初めです。半年しか時間ないじゃない・・・あわてて受験に必要な視唱を習うために声楽の先生のところに行き、ピアノも音大の先生にみてもらうことになりました。 音大の先生のところには4年生くらいから受験すると決めている子が2人いて、
やっぱり「今からですか?!」と驚かれました。 

秋には実技試験の課題曲が出ます。私はかなりのんき者でした。 家族も「まあ落ちても近所の中学校にいけばいいか」くらいに考えていました。(のんき者ですね笑) 

あっという間に2月はやってきて。 

寒い寒い日です。雪が降っていました。ピアノの実技試験の日に限って、私は大熱を出してしまったのです。学校に着くまでに気分が悪くなってもどしたりしたので服が汚れまくってしまいました。仕方がないので途中のスーパーで服を買い、試験会場の隅で着替えました。 

あとで、友達に「実技試験のためにわざわざ着替えている人がいた」とすごくやる気のある人に思われていたことが判明しましたが、いやいや、服が汚れて臭いも大変になっていたのでやむをえなかったんですよ(笑) 

当然頭はぼんやり。受験票もどこかに落としちゃって名前をよばれてもぼーっとして返事もしませんでした。 

が、なんとか許してもらってピアノ弾きました。緊張もなにも・・弾いたのよく覚えてない。。ただ、あっという間に終わった気がしたので多分滞りなくいつもどおり弾けたのでしょう。なんてラッキーな^^ははは。 

合格発表の日は当然あんな状態だったから受かってるはずないよねー。と見にいきましたが、あらら私の番号79番あるじゃない! 

というわけで、長い音楽学校時代が始まったわけです。 

ふたを開けてみれば、4年生から受験の準備をしていた同門の2人は合格できず、のんき者の私だけが国立に通う事になったのです。 

運命とはふしぎなものですね。

 

【音楽学校へ進学】へつづく

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